俺節
観てきました。
ボロボロ泣きました。
自分には歌しかない、と演歌歌手になるために上京してきたコージ
ギターだけを背負った夢半ばの、血の気が多いオキナワ
故郷の家族のために日本で働く、不法滞在の娼婦テレサ
真っ直ぐで、照れ屋で、熱くて、人のために生きるコージと、コージのために生きたいオキナワ、テレサ
そんなコージのサクセスストーリー
…というわけではなく、愚直で冴えない、だけど前を向けるようなコージの人生の物語。
結論からいうと、テレサとも添い遂げないし、コージは演歌歌手にもならない。
ハッピーエンドではないし、綺麗じゃない終わり方です。
関ジャニ∞の中では、なんでもできる器用なヤスくんだけど、舞台の上では紛れもなく海鹿耕治で。
舞台を見て、こんなに離れたくない、消えてほしくないと思ったキャラクターは初めてでした。
舞台が終われば、もうコージには会えないのだと、とても悲しくなりました。
それほどに、愛すべき人間だったと思います。
本当に安田さんにはコージが憑依してたし、彼のために作られた物語なのでは?と思うほど素晴らしかった。
歌声は普段の安田さんとはまた違う、暑苦しくて魂のこもったコージの歌声になっていて、クライマックスの、雨に打たれながら熱唱するシーンは、胸を打たれ、泣いてしまいました。
そして、カーテンコールでもボロ泣き。
前述したように、コージが消えてしまうのが悲しくて、舞台を見て、初めて、カーテンコールで泣きました。
今回流した涙は、物語の展開にというよりも、コージの歌によるものが大きくて、劇中に出てきた、
「歌は、聴く人に届き、頭の中で流れてはじめて歌になる」
っていうようなセリフそのままに、コージの歌が心に届いて、頭に流れて、感情が溢れてたのだと思います。
オキナワがコージのために作った歌が、コージへ向けたテレサのセリフとシンクロして、コージの歌う決心となったクライマックス。
形は違えど、オキナワも、テレサも、コージの歌に魅せられて、コージの人柄に惹かれて、コージの為にと思う気持ちがあったんだろうなと、コージにはそれほどの魅力が確かにあると感じました。
3時間半の舞台は、感じることが多すぎて、うまくまとめられませんでした。
ただ、コージの生き様を見て、私も、愚直に、熱く、大切な人と共に生きたいと感じました。
俺節。
観れて本当に良かった。
チャラン・ポ・ランタン 唄とアコーディオンの姉妹劇場
唄とアコーディオンの姉妹デュオ
恋ダンスの大ブームにより空気と化した、
逃げ恥のオープニングを担当しているアーティストです。
気になっていた二人が、海老名でライブ!
とのことなので見に行ってきました。
"唄とアコーディオンの姉妹劇場"
知ってる歌は半分くらい。
そんなに詳しくない。
そんなわたしでも、虜になって帰ってきました🎠
帽子がライトスタンドになったり、
スカートがライトの傘になったり、
バルーンスカートがカラフルなスカートに早変わりしたり…
舞台装置と一体になった衣装を作ったのはなんとお母さん。
目を奪う色彩と、耳を楽しませ続ける楽曲は、
サーカスに来たような錯覚さえ生むようでした。
大学時代、暇で暇で仕方なかった授業中のネットサーフィンで見つけた
墓場までご一緒に
のMVを見てから、独特な世界観と圧倒的楽曲力が気になってたのです。
3年前、東京ドームシティで偶然見たチャラン・ポ・ランタンのパフォーマンスに圧倒され、71億ピースのパズルゲーム、進め、たまに逃げてもなんかは聞いてたんですが、本物はさらにさらに上をいってました。
海老名文化会館の小ホールは、300人程度の規模感なんですが、舞台上は本当にサーカスみたいな、遊園地みたいな🏰🎠
でも、チャラン・ポ・ランタンの歌を聴いてると、中世ヨーロッパにも、アラブにも、現代のフランスにも、昭和の日本にも、不思議な夢の世界にも思えてきて、いろんなところにタイムトラベルしてるような気持ちになるんです。
たぶんその世界観への影響で一番大きいのは姉小春ちゃんのアコーディオン。
ものすごい数の鍵盤と、重たい重たいあのジャバラで優雅に奏でているのは、さすが大道芸で鍛えた「明るいけど暗い」「暗いけどポップな」、いろんな要素の混じり合ったメロディー。
そこに圧倒的な妹ももちゃんの歌唱力。
可愛らしさと、ドス黒さと、昔感と今っぽさ。
(ちなみに小春ちゃんのハモは、ももちゃんと声が似てる上に歌が上手いのでぴっっっったりハマってて、聴いてて気持ちいい。)
知ってても知らなくても手拍子したくなっちゃって、さすがワールドワイドに認められた言語を超えた魅力があるデュオだなと。
ライブでもなく、コンサートでもなく、
SHOW
劇場
という言葉がやっぱり、しっくりくるかな。
夢の世界に逃げ込めたような気分で本当に楽しかったです。
「墓場までご一緒に」
蜘蛛女のキス
大倉忠義 渡辺いっけいのストレートプレイ
蜘蛛女のキス@東京グローブ座
2017.6.5
未成年への不徳行為で投獄された同性愛者モリーナと、政治犯として捕らえられた革命家ヴァレンティン
正反対の二人が心を通わせるストーリー
前評判は「ざわっとする同性愛」
スパイスとしてピリッと効いてるそのシーンが強烈な印象を与える訳ですが、
実際は、モリーナとヴァレンティンの世界を覗き見しているような、ぐっとくる2時間半でした。
肉体的に追い込まれていくヴァレンティンと、
その姿を見て精神的な苦しみを味わうモリーナ
モリーナのいじらしさと葛藤は、女性以上に女性であり、その苦しみを抱えながらも優しく母がしてくれたように接するモリーナの姿に、ヴァレンティンは惹かれていったように思います。
母のために早くここを出たいと願うモリーナと、出るための関係と、少しずつモリーナの幸せを願うようになるヴァレンティンがつらくて切なくて。
冒頭に述べた同性愛のスパイスは、同性愛というよりも、モリーナとヴァレンティンの寂しさと、お互いに通い合ってるはずなのに他の人を思う気持ちと、それでもお互いを必要とし、心が安らいでいくようなシーンになっていたように思う。
男と男の単純な愛ではなく、モリーナだから、ヴァレンティンだからお互いを許したんだと。
友達としての好きなのよと。
ヴァレンティンが恋人の話をするたび、やっぱり聞きたくない、と耳を塞いでいたモリーナが、恋人への手紙を代筆するシーンでは、ヴァレンティンの恋人の愛に耳を傾け、静かに筆を走らせていて、ヴァレンティンを犠牲にしている自責の念と、受け入れる覚悟を決めたような気がしたのだけど。
やっぱり途中で筆を止めて、身体を拭きましょう。と、提案したところに、ちょっとした優位性を感じたかったのかなと思ったりもしました。
ストレートプレイならではのシンプルな舞台
表現の大きな要素の一つが照明なわけですが、終始目を奪われてしまいました。
ヴァレンティンが目を覚ます、朝日の眩しいシーンでは、モリーナの淹れたコーヒーの香りが漂ってきそうな白色の明かりは、眼が覚めるようなシーンに。
個人的に一番のお気に入りは、ほんの小さな光が差し込んでいる天井の格子。
外の世界を感じながらも、果てしなく遠く、手の届かないところのような気にもさせる。
舞台を見た後は、考察をたっぷり読むのが大好きなのですが、幸運なことに8日も見れるので、力を入れてじっくり考察を熟読したいと思います。
前回のグローブ座、マクベスは舞台装置にも演出にも脇を固める演者様にも、終始目を動かしっぱなしだったわけですが、今回はセット転換なし、二人舞台なので、次回はその表情にも注目してじっくり楽しみたいと思います。